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SMITH-R-REENZ

SMITH-R-REENZ

15歳の時にレコード屋で買い物中にDJに誘われたのがキッカケで地元岡山のDELETEでDJプレイを経験。音楽のキャリアをスタートさせる。1992年の事である。

17歳の頃には岡山のCLUB JAMのレギュラーパーティBLACK FELLOWSを始たり、ラップも友人に誘われパーティーでしてみたり、その頃より色んな事に興味を持つが、特に楽曲製作に興味を持ちはじめ憧れていた。

東京で開催された『さんピンキャンプ』という野外ライブでアーティストから受けた衝撃が原因でアメリカのNYに渡り経験を積む覚悟を決める。

96年 アメリカの東海岸NEW YORK州のブルックリンに単身で渡米。

同年、そのブルックリンのピザ屋でSPELLBOUND RECORDS代表のDJ BENに話しかけられレーベルのアシスタントとなる。たまたまDJ BENの相方のYOU THE ROCKのT-シャツを着て食事をしていた縁があった。

マンハッタンのBEN宅には当時 TWIGY, MURO(ラッパー or Prdc)達2人が各自ファースト・ソロ・アルバムを録音・制作する為、日本から飛行機で頻繁にNY出入りしていた。その頃・・・

当時、アナログレコードから音の一部分を個別にサンプリング(集音)してから、(ドラムの電子パッドで叩くとその音が再生する様に録音用意をし)パットを叩いて演奏し録音して作り出す『楽曲の製作方法』が主流だった。実際にBEN÷TWIGY÷MUROが曲を作っている現場に何度かいたので目の前で彼らのその作業を見て・感じて楽曲製作を勉強する。まだ何にも知らないし出来ない自分だったが、ラッキーにも気合いや熱い想いだけを気に入ってもらえた。

その後のレコーディングスタジオでのボーカルレコーディング、ミックスという作業にも全曲アシスタントとして立ち会う。完全に自分は『ダッシュのパシリのガキ』以外の何者でもなく、このアシスタント時代の実際の自分の出来る事はそれだけだった。(頑張ってたからなのか TWIGYは岡山のライブの時に僕の名前をフロアに叫んでいてくれたらしい)

そし間もなく、TWIGY MUROは日本で大ブレイクになった。

(MUROとBENからMUROのセレクトショップ ”SAVEGE” のオープニング期の洋服の買い付けと、名古屋のスキルズの各種買い付けなど数年間の”バイヤー”の仕事を引き受ける)

99年頃(留学中、基本ほぼずっとそんな感じだが)親のスネをかじり留学・生活していた。

それをたまには関係ない事までも笑い自分を批判する在米の日本人から日常的に無視やかげ口などをされていた。日本人がNYでドラッグを売って生活する価値観を押し付けられるも、自分には理解ができず、それに対し普通に意見していたからであった。

また自分が指揮しリーダーとして始めたグループも(自分にも力や技がなかったからだが)少なからずそれも原因となりクビ。NYでひとり鬱の時期を経験した。

アメリカのシーンでたった一人NYのSOHOで夜中6時間ぶっ続けのDJプレイの仕事(週2・3回)を始める事にする。(DJプレイは在米中14年ほぼいつの時期でも毎週末していた)

場所はNYのSOHOでそれを見ていた当時NY在住だったDJ KAORIから、スキルではなく『何か』を評価されDJの仕事を沢山紹介してもらう様になる。知人繋がりで良いように使ってくれたり、チャンスもくれた人で、一緒にクラブやBARでDJしたり家に招いてもらってNYの事を教えてくれた。 RUN DMCのDJ JAM MASTER JAYやMISTA SINISTAやBLACK MOONのDJ EVIL DEEなどとレギュラーでDJする仕事もDJ KAORIからだった。

2004年頃からDJとは別にレコーディングスタジオのアシスタント、PA関係のアシスタントなど始める。

早く経験を積みたかったが英語が問題で中々成長しない時期も長く経験。かなり英語で苦労する。しかし何度もレコーディングでアーティストと感じながら物を作り上げて行く過程を共有し過す事で、自分に身に付いた音楽のリズム感やセンスは認められるほどに成長をしはじめる。この頃より日本人の全くいない環境に自然と、と云うか・・・なんだろう仕方なしかでなれていく。

2007年頃、JAY-Zや50 CENTのプロデューサーであるPETER PANICと友人を通して知り合い、彼のレゲエのスタジオ、FUGITIVE STUDIOのアシスタントエンジニアを努める。

自分がオペレートするボーカルレコーディングの現場で、自分が黒人シンガーやラッパーにリズムやテンションなどを教える ”コーチィング” の能力が高く評価されたのは、少し驚いた。センスを頼りに出来る事がある事に気が付き、楽しくアーティストたちとの録音が進んだ時期だった。

次第にレコーディングやミックス作業も任される事も多くなる。

週末はPETERとDJプレイの仕事もしていたが、ある時同時に2人ともがDJとしてスカウトされNYの芸能人やお金持ちの100-300人規模のプライベートパーティーのDJを数多く担当出来てビックリした。

後期には自分一人の指名でDJのオーダーが入るまでになり、やっと高額なお金を手にしはじめた時期でもあった。

その頃PETERからスミダリーンズ(SMITH-R-REENZ)と云う名前を貰う。(黒人意外の人種で白人のエミネムみたいなクレイジーで才能を持ち合わせたアーティストが、もしも現れたらそいつにやろうと思って長年温めていた名前だ)と言っていた。

その後ブルックリン産まれの黒人シンガーTiffanyと日本人女性ラッパーICE COCOと日本のコンピレーションCDに参加し(That’s da way I chose)CDがリリースされた。

NYの日本人ラッパー KOJOE(NYのRAWKUS RECORDSと日本人で唯一ラッパーでの契約経験が有)と友人の紹介で知り合う。

SMITH-R-REENZのプライベートレコーディングスタジオに彼が彼自身のニューアルバム製作の為に(レコーディングの為に)頻繁に来ていたので縁があり、SMITH-R-REENZのアルバムにも複数曲参加する事になる。

KOJOE は 2009年に クイーンズから東京に活動の拠点を変える。

2010年、14年のNY生活にピリオドを打ち、日本に帰国。

落ち着く先はやはりターンテーブルの周りや、制作現場付近なのには何の変わりもなく、『もっと何度も聴きたくて回したい曲・音楽』がきっと自分の中から出せると確信し、一からアルバムの製作をはじめている。

また仕事で後輩などからの『製作の協力要請』にも広く応えれるスタンスをとっている。

RAPは、小さなライブハウス(岡山デスペラード、クレイジーママ、ペパーランド)でBANDと共演したり。

DJ は(TREES 第2金曜, SAUDADE 第一金曜など)などで活動中

Date : 2011/11/16

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